日本の西洋建築の父、ジョサイア・コンドルの建築を楽しむ「銀河館」は入り江のような相模湾を見渡す湯河原海岸にあり、地下1階地上3階の木造建築のアンティークの西洋館です。
1階は30名が食事やお茶を楽しむダイニング、2階はセミナーやコンサート用のサロン、最上階は畳の広間です。日本を愛したジョサイア・コンドルが初期の作品のみに用いた西洋建築の中の畳の大広間が残されています。ここから太平洋の海原を望むと悠久の夢の世界が心の安息をもたらします。
少女時代、4人の妹たちとお稽古をしたり、両親の親しい友人たちや、町の人々を招いて過ごす今田家の迎賓館の役割を果たした家です。私が本格的な西欧文化の憧れを抱きヨーロッパ伝統のお菓子や食卓芸術を学びに海外に出かけ、これを現在日本で伝える「今田美奈子食卓芸術サロン」を築きあげるきっかけとなったのもこの家です。
現在は今田美奈子所有の別荘として、随時サロン講座を開いたり、海の幸を楽しむ会食やコンサート等が開かれ、今田美奈子アソシアシオン(友の会)や、友人・知人に開放しています。丁寧に柱、床、階段の一本ずつの木材を手斧で削り上げ、デザインを施した木造建築の木のぬくもりの中で過ごすひとときは得も言われぬ心地良さです。
希望者があれば今田美奈子自身が、J・コンドルの建築美学の講演を行い、館内を案内しています。
インド、擬サラセニック、浮世絵等の和洋デザインが刻まれた木の彫刻が施された室内には、野蚕のシルクカーテンやインドシルクのシャンデリア、19世紀そのままのゲーテの悩み(ゆがみ硝子)が用いられ、懐かしさ漂う館です。
訪れる人に幸運な人生が舞い込むと言われる不思議な絵が飾られていることでも知られています。獅子文六、遠藤周作氏、田口ランディ氏、西村京太郎氏等の作家や、3人の総理大臣やそのご家族が、それぞれ近年や若い頃に訪れています。
明治11年日本政府に招かれて来日したイギリス人のジョサイア・コンドルが最初に建造した公式の大型作品が東京帝室博物館(現上野博物館)でした。
関東大震災で解体された時、土田卯三郎医学博士(大正天皇主治医)が全館買い受けて、その一部を湯河原海岸に移築し、令嬢(のちに上野動物園古賀園長夫人となる)の別荘になり、これを第二次世界大戦後、今田美奈子の父、今田冨雄が譲り受け現在今田美奈子の所有の別荘となりました。
土田医博が所有した他の部分を東京で再構築した家は、戦災で全焼したため、日本最初の公式西洋館は銀河館のみになりました。幼少時代の私はこの建物が日本の財産であることに気付いていませんでしたが、そのことを知り、本格的な文化財としての修復を行い、大切に維持していくことになりました。
26歳のJ・コンドルが胸ときめかせ、東洋への夢に燃え、和洋混合の畳のある西洋建築は他にありません。時の総理大臣、伊藤博文は純粋の西洋建築を望んだため、鹿鳴館(現存せず)を造ったあと解雇され、J・コンドルはイギリスに戻されました。再び三菱財閥の岩崎弥之助に呼ばれ、三井倶楽部、ニコライ堂他、個人宅等を建造した折には、純西洋建築が作られたからです。
10年ほど放置されていた銀河館は、ある日地下に泥棒が入ったと知らせがあり、このとき解体する予定で、下見に行った建築家の藤木隆男氏が、J・コンドルの作品であることに気付き、氏に修復を引き受けていただき、蘇ったのでした。生命力の強い幸運のエネルギー溢れる建物です。建築界の重鎮、当時東京大学の鈴木博之教授、藤木隆男氏の恩師、都立大の桐敷真次郎名誉教授等の立ち合いを得た結果、文化庁より有形文化財の認定を得ました。湯河原町で第一号の建築のモニュメントになりました。
ロンドン出身の建築家。1877年、日本の招聘に応じ、工部大学造家学科、ついで東京帝国大学造家学科(現在の東京大学)に着任。日本で初めて本格的な西欧式建築教育を行った。辰野金吾ら、創生期の日本人建築家を育成し、建築界の基礎を築いた。のち民間で事務所を開設し、財界関係者らの邸宅を数多く設計した。河鍋暁斎に日本画を学び、「暁英」の号を持つ。1893年(明治26年)山口くめと結婚。
主な建築物に、鹿鳴館(1883年 現存せず)、ニコライ堂(1891年)、三菱一号館(2009年 丸ノ内ブリックススクエアに復元)、岩崎久弥邸(1896年頃 旧岩崎庭園)、岩崎弥之助邸(1908年 三菱関東閣)、三井倶楽部(1913年)、諸戸邸(1913年 六華苑)、島津邸(1915年 清泉女子大学)、古河邸(1915年 旧古河庭園)などがある。
問い合わせ
銀河館でのイベント等をご希望のお客様は下記までお問い合わせください。
今田美奈子食卓芸術サロン 事務局:TEL 03-3376-6011